戦後最大の疑獄といわれるロッキード事件を捜査した元東京地検特捜部検事、緻密で鋭い捜査手法から「カミソリ堀田」の異名をとった。退官後は公益財団法人を設立して福祉活動に尽力した堀田力氏が老衰のため、11月24日逝去。『好きな言葉は、挑戦。時代を良くしたい、社会の役に立ちたい、という夢に向け最後まで挑戦を続けた生涯だった。(読売新聞12/4付けから)』【合掌】
日本全国を自転車で巡るNHKのTV番組「にっぽん縦断 こころ旅」で旅人を務めた火野正平さん。岐阜県にも自転車で何カ所も訪れた。飛彈市の瀬戸川と白壁土蔵そして円光寺、中津川市の見佐島橋から見る付知川の下流の風景、恵那市大井ダムの上を横切り、恵那峡を一望できる千畳敷からの絶景、下呂市禅昌寺の庭、他にも郡上市、美濃市、養老町、各務原市など自転車で旅をした。彼の言葉で、有名なのが、「”人生、下り坂、最高♪”。歳をとると、いろんな面で、”下り坂”を感じることがあるが、変に落ち込まないで、肩の力を抜いて、今の自分を受け入れて、下っていこうよ♪」と。彼は、1200日以上自転車で旅をして、11月14日75歳で旅立った。【合掌】
戦後の日本を代表する詩人が旅立った。70年以上言葉と向き合い、鋭い感性と親しみやすいことばで表現、詩人でありながら翻訳・音楽・映画など多彩な分野に足跡を残した。表現は軽やかに見えるが、反戦の思いを込めた詩などで現代社会に厳しい視線を向ける人でもあった。彼は「人間は直線的に縦に成長しているとおもいやすいが、木の年輪のように、横に一皮ずつふくらんだかのように成長していると考えたほうがいい、輪切りにしたとすると、いつも芯には子どもの時代が息づいているのだ」と。そして「よるになったらほしをみる/ひるはいろんなひととはなしをする/そしてきっといちばんすきなものをみつける/みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる/だからとおくにいてもさびしくないよ/ぼくもういかなきゃなんない(詩「さようなら」)」と。私たちにさようならをして逝った。【合掌】
大相撲九州場所7日目玉鷲関が40歳の誕生日に白星。19歳でデビューして一日も休まずに丸21年連続出場記録更新中。現役最年長の関取は、「人間の体はここまで成長する、できるというのを見せたい。まだ成長中なので」と。40歳以上の現役幕内力士は昭和以降で6人目だ。そして、この日先場所引退した元大関貴景勝が、NHKのTV相撲番組の解説者としてデビューしたが驚いた。現役時代には見られなかった表情が柔らかくなった顔だった。彼は、TVの解説時に冒頭の言葉を信条としていたと言った後「現役の時はつくっている顔の時もあった、でも今は勝負師としては終わったので、楽しくやっていきたいと思います」と温和な顔で話した。彼の大関昇進時の口上は「武士道精神を重んじ、感謝の気持ちと思いやりを忘れず相撲道に精進します」だった。だから現役中は眉間に皺を寄せるような顔つきだったのか。彼は武士道精神を貫いた力士だった。
彼は以下の詩を残した。”If I must dai(もし私が死ななければならないのなら)”『もし私が死ななければならないのなら/あなたは生きなければならない/私の物語を伝えるために/私の遺品を売り/布切れと少しの糸を買うために(長い尻尾のついた白いものにしておくれ)。ガザのどこかにいる子どもが天を仰ぎ見て/炎に包まれ旅立つ父を待つとき/その父は誰にも別れを告げられなかった。自分の肉体にすら/自分自身にすら。あなたが作る/私の凧が舞い上がるのを子どもが見て/ほんのひととき/天使がそこにいて/愛をまた届けに来てくれたと思えるように。もし私が死ななければならないのなら/それが希望をもたらしますように/それが物語となりますように』。絶望の中から生まれた一編の詩、ガザから世界へ拡散した詩だ。今も連日、ガザで続く激しい空爆。戦火はレバノンにも広がり周辺国を巻き込んでいる。
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